なんとかに刃物
別に伏字にする必要もないのですが関係者の方を思うとそのままには書けない。
秋葉原の事件ですが今日(正しくは昨日)になってやっとメディアに詳しい情報が載りだしましたね。なかには見取り図まで載せているニュースサイトもあります。
一番わからんかったことはこれだけ暴走している犯人を警官はどうやって止めたのか、だった。
今日になって警官が銃を突きつけて観念したようにナイフを置いた、とニュースサイトにはある。
これは犯人がタイトルの様な人間ではないことを指す。また、頭の中が真っ白だった、などと供述しているらしいがそうではなかったことを確実に物語っている。
つまりナイフでは拳銃に勝てない、これ以上行動を続ければ拳銃で撃たれる->自分は死ぬ、ということを冷静に一瞬で判断しているということだ。もし犯行に銃が使われていたらいったいどうなっていたんだろうか?
またトラックも暴走し続ければあの秋葉原の広い通りだ、大きな障害物もなかったのだからまだ走りつづけられたであろうと思う。
トラックが走れなくなったからナイフでの犯行に切り替えたのではなく、ナイフの犯行は当初から計画済みだったということだ。
これだけのことを見ても精神鑑定はすでに必要ないだろう。
解雇通知を受けてたとか、投稿サイトで自暴自棄になったとか、父親との確執、だとかいろいろな犯行の理由付けを本人でもない、メディアやなんかがしているがそんなものはいらない。
重要なのは、なぜ、ではなく、犯人は”したくて”殺人行為を犯したという事実。
それ以外にこの事件になにが必要だろう。
あくまでも結果論だが警官が犯人を現場で銃殺していてもおかしくない事件だ。警官が発砲しなかったのは人通りの多い市街地だったから当然とも思えるけど、一方で、やはり平和ボケなんだろうか、と言葉は悪いが、そう思わずにはいられない。
結果、これだけは認めたくないがこの犯人は一人で日本という社会を変えてしまった。サリン事件のときも日本の安全神話は崩れたという報道があったが、集団犯罪ではなくたった一人の人間が大量殺人を行ったということが日本の社会の安全性を根源から揺さぶってしまった。もう安全なところはない、満員電車のとなりの人間がいつ殺人鬼になるかもしれない、ということだ。
なぜここまで書くのかといえばやっぱり、多くの人にとってそうであるように僕にとっても秋葉原は自分の街であるからだろう。
もちろん毎日のようにアキバに通ってたわけでもないが、思い起こせば小学校の頃アマチュア無線をやっていた兄につれられて米軍放出のジャンク街を買い出ししにいったことから始まる。小学生のちっこいの(僕)がダイオードやら抵抗、トランジスタを買い求めると店のおじさんたちがきれいな発光ダイオードを2,3個何も言わずにおまけしてくれたりした。兄もそれが目当てで僕に買い物をさせてた。結局それらが光ったのを目にすることはなかったけど。
高校の頃には楽器店に、専門学校の頃はPAの機材、キャノンやケーブルを買出しに行った。
社会人になってからはマイクを買いに走らせられたり、転職してからはパソコンのパーツ買い、だ。
最近はパソコン本体や書籍を買いに、気が向いた時に行く位になってしまったが、本当に濃い時間をアキバで過ごしていたと思う。
そういう大事な街なんだ、やはりありきたりな言い方だけど怒り、悲しみ、喪失感を感じずにいられない。